七.厄介なお届け物(1)
玄関ドアを開くと朝の澄んだ空気が全身を出迎える。クロイはズボンのポケットから鍵を探り出し、鍵穴に差し込んだ。ゆっくり回すと、カチリと小気味良い音がする。
身を翻して外廊下を進んでいく。呼吸をする度、冷気が肺の奥に染み込んでいくのを感じる。心臓の鼓動が煩く急かしてくるが、歩くペースを保ちつつ頭の中でいつもの通勤ルートを確かめた。
フォルカンとして働き始めてもう数か月が経ち、この街にも大分慣れた。今から出発すれば業務開始時間に十分間に合うだろう。
廊下の端まで来ると階段があり、段差をリズミカルに下りていく。踊り場を二回過ぎ、更に数段降りるとアパートのエントランスに到着する。集合ポストの向こう側に出口が見えた。その瞬間、自分でも気づかない内に踏み出す一歩が徐々に速く、大きくなっていく。ガラス戸を開けて歩道に踏み出した瞬間、遂には走り出していた。
住宅街はまだ薄暗い静寂に包まれている。どの家もカーテンが閉め切られ、人の気配は無かった。まるでクロイだけが取り残されたような道を駆け抜ける。耳元に自分の息遣いだけがやけに大きく響いて、少しだけに思えた。
アパートと一軒家をいくつか通り過ぎ、次のマンションを左へ曲がると街を分断するように川が流れている。川に架かる短い橋を渡った先に木造の古民家風の建物があった。クロイは足を止めずに目線だけを上げ、入り口に掲げられた木の看板に目を向けた。
『タテハ食堂』と筆で書かれたような文字が刻まれている。この店は近所でもそれなりに有名な定食屋らしい。チームメンバーも月に数回訪れると話していたっけ。通勤の利便性だけを理由に今のアパートへ引っ越しを決めたけれど、案外悪くない選択だったようだ。閉ざされた扉に掛かる準備中の札をちらりと見て、次の休みまでの日数を数えながらクロイは表通りへと足を進めた。
先ほどまでの静けさとは打って変わり、自動車の忙しない走行音が耳に飛び込んで来る。歩道には先を急ぐ人が行き交い、コンビニやスーパーの周辺は通勤前の客で賑わっている。バス停前には既に長い行列が伸びていた。クロイは右へ左へ人混みをすり抜けて走り続けた。そのまま交差点に差し掛かると、手を上げて行儀よく横断歩道を渡る子供達を追い抜く。
道路の反対側へ辿り着いた時だ。ふと、こちらへ近づいてくる奇妙な音に気が付いた。それはモーター音にも似た低く唸るような音で、数メートル程の高さを移動しているらしかった。どこかで聞き覚えのあるその音に、クロイは足を止めてそっと聞き耳を立てる。
「よう、そんなに慌ててどーしたんだ?」
揶揄うようなセリフが頭上から降って来る。見上げると、案の定そこには目が覚める緑と黒のツーブロックヘアがあった。
「今日も寝坊かクロイ?」
シャビが大袈裟に首を傾げてこちらを見下ろしている。彼の背中では、四枚の翅が軽やかなリズムを刻み続けていた。
「まあ・・・ね」
クロイは思わず口元を綻ばせる。が、荒い呼吸を整えるのに必死で次の言葉が続かない。膝に手を突いて激しく肩を上下させていると、見兼ねたシャビの方から降りてきた。
「掴まれよ、送ってやるから」
シャビが笑顔で手を差し伸べる。その手には革の手袋が嵌められていた。シャビが飛行する際には必ず身につける代物で、クロイの記憶では元々白かったはずだが、今は毛羽立ちが目立つ灰色に変わってしまっていた。
クロイが弱々しく手を取るとシャビは力強く握り返す。ぐいと全身が引っ張られる感覚がして、クロイの足がアスファルトを離れた。二人は騒がしい雑踏を逃れ、自動販売機や信号機を越え、建物を見下ろす高さまでするすると昇っていく。周囲に障害物が無くなると、今度は事務所のある方角へと移動を始めた。
「はぁ、通勤時間十分のお前が羨ましいよ」
自身が辿って来た道を遥か下に見下ろして、クロイがぼやく。シャビは楽しげに声を上げて笑った。
「空を通勤してる奴なんてティスアでもそういないからな。まぁ、飛行速度ならオレは誰にも負けない自信があるけど」
火照った肌に触れる風が心地良い。朝日はすっかり昇り、ティスアの街を遠くまで見渡すことができた。密集する店舗群、ゆったりとうねる道路、鉛筆を何本も突き立てたように聳えるオフィスビル。それらの間にまっさらな空き地や工事用の足場で囲まれた土地がいくつも点在している。そのほとんどが過去にルーグ災害に遭って放棄された場所だ。
数年前に何かのテレビ番組で見た景色とは大きく異なる街並みに、オープンを間近に控えたショッピングモールが巨大な丸い影を落としている。その美しい光景にクロイは疲れを忘れて見入っていた。
「そろそろ着くぞ」
呼びかけに振り返ると事務所が入っているビルがもう目の前だった。
シャビが翅を器用に動かして速度を落とし、高度を下げ始める。地面まで残り数メートルの所でクロイは体を振り子のように前後に揺らし、頃合いを見計らって飛び降りた。続いてシャビも着地して、二人はそそくさとビルの中へ入っていった。
******
何とか遅刻は免れたと安心したのも束の間で、事務所の扉を開いた瞬間、知らない人物と目が合った。
部屋の中央に置かれたソファに女性が一人、布を被せた箱のような物を大事そうに抱えて座っている。その向かいにはギュートが腰掛け、依頼人が記入する受付シートに目を通していた。時々目の前の客に質問をして、シートに何か書き足している。と言うことはその女性は依頼人なのだろう。
クロイとシャビは客人を出迎えようとソファに近付いた。
「あ、いらっしゃいませ」
「おはようございます」
二人が咄嗟に投げかけた纏りのない挨拶に、客人は戸惑いながらも控えめな会釈を返す。リーダーも書類から顔を上げ、短くおはようと返した。それから意味深に片方の眉毛をぐいっと上げて二人に目配せする。どうやら早く準備をして来いという事らしい。二人が慌てて事務所の奥へ駆け込むのを見届けると、リーダーは客人の方に向き直った。
パーテーションの向こうから、キーボードを打つカタカタという音が聞こえている。事務スペースに入ると、アマリアは熱心にパソコンに向かい、ユウナも机の上に書類の入った分厚いファイルをいくつも並べて契約書を揃えている最中だった。
「おはよう二人とも」
クロイ達が声を掛けるよりも先にユウナが反応する。
「急ぎのお客様よ。いい機会だから今回はチーム全員で対応する事になってる。今お湯を沸かしているから、お茶の準備を頼める?」
「お待たせしました」
クロイが不器用な手付きで茶托を掴み、テーブルへ湯呑を置いた。客人は小さく礼を述べた。
「さて、改めて今回ご依頼いただいた内容を確認させて下さい」
職員達が客人と向かい合う形で全員席に着き、いつもの調子でギュートが仕切り始める。
「まず、こちらは依頼人のシオンハートさんだ」
紹介を受けた人物は静かに頭を下げた。袖が大きく広がった黒のワンピースが彼女の褐色の肌を膝下まで覆っている。足元は編み上げのブーツで隠し、紫に黒を一滴垂らしたような深い色の髪の毛は緩やかなウェーブを描いて肩に乗っていた。
シオンハートは長い前髪の下からおずおずと職員達を眺めた。その視線は居心地が悪そうにしばらく行ったり来たりしていたが、やがて決心が付いたのか、リーダーを見据えそっと口を開いた。
「実は、このコを友人の元に届けて欲しいんです」
そう切り出して、彼女は抱えていた箱を徐にテーブルへ置いた。被せてあった布が取り払われ、中身が露わになる。
それは三十センチ四方の水槽だった。中はたっぷりの水で満たされ、微かに揺れる液体の中に茶色くて丸々とした生き物が浮かんでいる。
「あ、可愛い」
真っ先にアマリアの声が漏れる。しかしクロイを含め、他の職員達の目にはそこまで魅力的に映らなかったらしい。皆少しばかり困惑した表情でその生き物を見つめていた。
大福を潰したような頭に三角形の耳が生え、小さい瞳と横に大きい口が不機嫌そうな表情を作っている。短い手足と太いしゃもじのような尻尾には水掻きが付いており、その生き物が動く度に半透明の花弁みたいにひらひらと動いた。
「このコはクラウスちゃん。トロストカゲという生き物です」
弱々しかったシオンハートの声が徐々にはっきりと響き始める。
「中でも特に珍しいジェム種と呼ばれる種類なんですよ」
彼女は愛おしそうにそっとガラスの壁に触れた。その手の動きに答えるように、トロストカゲは水面から顔を出す。次の瞬間、ベェッというお世辞にも可愛いとは言えない鳴き声を上げて、トカゲが何かを吐き出した。
螺旋状に捻じれた細長い物体。それはよく家具などに使用されるバネに似ていた。トカゲの口を離れた物体は音もなく水槽の底に沈んでいく。行き先をよく見てみると、底石だと思っていた沈殿物は丸や四角や細長く捻れた物など、様々な形状をした金属片の集まりだと分かった。
「このように体内に溜め込んだ異物を固めてから吐き出すんです。そして、ジェム種は極まれに宝石のように美しい結晶を生むことがある」
そこに見えるでしょう、とシオンハートの指が示した先に他の沈殿物とは異なる赤く光る塊があった。
「もちろん本物の宝石ではないけれど、その珍しさから高値で取引きされる事もあるんですよ。トロストカゲ自体ペットとして人気ですが、ジェム種は特に貴重で愛される生き物なんです」
彼女は興奮気味にここまで語り、満足気に微笑んだ。が、顔を上げた瞬間、呆気に取られている職員達を見て表情が強張る。初めあれだけ声を出す事を躊躇っていた人物が、突如饒舌に話始めるのだから無理もないが。
「ええと、それで今回の依頼についてですが」
気まずさを誤魔化すようにワンピースの皺を手で払いながら、シオンハートは改まった調子で本題に入る。
「仕事でしばらく留守にするので、このコを友人に預かってもらう事にしたんです。ただ、トロストカゲを運ぶのは大変なので、友人に取りに来て貰う訳にもいかなくて。それに大切な家族ですから、信頼できる方にお願いしようと……」
その声はさっきまでの自信を失い、段々尻すぼみになって消えてしまった。皆が言葉に詰まる中、トロストカゲが水中で身を翻す音だけが室内に無邪気に響く。
「ご安心ください」
沈みかけた空気を打ち消すようにリーダーが言葉を放った。
「うちは優秀な職員が揃っていますから、必ずクラウスちゃんを安全にお届けしますよ」
