帰宅して明かりを点けると朝出かけたままの部屋が露わになる。
クロイは茫然と部屋を眺めた。
壁際に置かれたベッドから布団がだらしなくずり落ち、傍にパジャマが丸まって落ちている。テーブルの上には、今朝と全く同じ位置に皿とカップが並んでいて、乾いたカフェオレがカップの底に三日月型のシミを作っていた。クローゼットに視線を向けると、扉の隙間から悩んだ末に選ばれなかったシャツや靴下が溢れている。
もう体はクタクタで、すぐにでもベッドに倒れ込んで眠りたい。しかし仕事着を皺にする訳にいかないし、空腹も限界を迎えていた。
しばらく葛藤した後、仕方なく鉛の様な体に気力を呼び戻すことにする。
洗面所で手洗いとうがいを済ませ、皿とカップをキッチンの流しへ移動させる。布団の誘惑に負けない様素早くベッドを整えると、パジャマを拾ってクローゼットの扉を開いた。
靴下が転がり出て、シャツがハンガーごと降って来る。狭いクローゼットの中にはこれでもかと物が詰め込まれていた。
ハンガーパイプはスーツや生地違いのシャツ、冬用のジャケットで端まで埋まり、三段重ねの衣装ケースはTシャツやデニム、下着類で満杯だ。その横にあるプラスチックケースにはバッグやベルト類が乱雑に放り込まれていた。
クロイはスーツを端へ押しやってシャツを掛け直し、靴下を引き出しの中に詰め込んだ。他にも散らばる衣類を元の場所に戻してから、通信機のホルダーに指を掛ける。ベルトに取り付けられた金具がパチンと音を立てて外れた。通信機の重さが体から離れ、緊張が解れていく。ホルダーを衣装ケースの上に置いて服を着替えた。最後に冷蔵庫から作り置きの夕食を取り出して電子レンジへ放り込むと、ようやく疲れた体をソファに投げ出した。
深いため息。クッションに沈み込む感覚を全身で味わう。
ゆっくり瞼を開くと天井のシーリングライトが目に入った。円形のシンプルな照明が優しい光を放っている。そのままじっと天井を見つめていると、視界の端に何やら黒い物体が映り込んだ。
それは拳ほどの大きさでふわふわと宙を漂っていた。数回跳ねる様に浮かんだと思うと次の瞬間力なく落ちてきて、また思い出した様に跳ね上がるを繰り返している。やがてゆっくりと顔の近くまで降りてきたので、指先で小突くとすぐったそうに震えた。
「ふふ・・・」
思わず口元を緩ませる。今度は指で円を描くように空気を撫でて、指先から小さな泡粒を発生させる。謎の物体は体をくねらせ、中央に大きく穴が開いたと思うと銀色の牙を覗かせながら泡粒を吸い込んだ。
途端に謎の物体は風船の様に膨らみ形を変え始める。上部から尖った耳が二本生え、下から短い四本の脚が突き出て空気を蹴った。ふさふさの尻尾は長く、ご機嫌に左右へ揺れている。顔の中央に一つだけの大きな瞳が見開かれると、それはクロイと同じ深い青色に輝いた。
「ただいま、キィ」
床に着地した生き物は犬とも猫ともつかない奇妙な姿だ。クロイが声をかけると、ギャウと奇妙な鳴き声で返事をした。毛並みはごわごわで、撫でると嬉しそうに顔を摺り寄せてくる。クロイがまた泡を浮かべるとキィは泡に飛びつき、ひとしきり遊んでから齧りついた。また泡を浮かべ、キィが戯れつく。気が付くと二人は夢中で遊んでいた。
電子レンジのベルが鳴り、クロイの腹が悲鳴を上げた所で我に返る。
「ご飯にするよ」
クロイはソファから立ち上がった。
白米に豚肉と野菜の炒め物、湯を注いだインスタントのスープをテーブルへ運ぶ。テレビ台に山積みになった本や広告の中からリモコンを探し出し、テレビの電源を入れてソファに腰掛ける。
丁度夜のニュースが始まるところだった。中央街のショッピングモールが再オープンする話やエディナの花が見頃を迎える事、コンリート地区の再建状況など平和な話題が続く。
『続いて、本日のルーグ発生に関する情報です』
クロイは箸を動かす手を止め、テレビ画面を見つめる。
『本日はA級のルーグ災害が二件、森林地区西側と第四コンクリート地区で確認されました。なお、既に特殊自然研究所チームによる駆除が完了しており、拡大の恐れはありません』
読み上げられた報告に安堵する。
今日もフォルカン達の活躍によりティスアの平穏が保たれている。 自分もその一員になれたと思うと誇らしい気分だった。クロイは静かに微笑んで再び箸を進めるのだった。