六.出勤 

六.出勤

 体が水中にいるみたいに軽い。辺りは滑らかな紺色の闇に満ち、口を開けると、吐き出された空気の泡が頬を伝って鼻先へ上っていく感触がした。クロイは腕を正面に突き出してみた。しかし、自分の指がどこなのかすら判別できなかった。

 出口があるかも分からない空間にただ一人漂っている。しかし不思議と怖さはなく、どこか懐かしいようなとても穏やかな気分だった。

 しばらく心地よさに身を委ねていると、頭上の遥か遠くの方に一筋の光が見えた。それは最初細い糸の様に弱弱しく思えたものの、じっと見つめるうちに少しずつ闇を飲み込みながら広がっているのが分かった。次第にクロイを取り巻いていた紺色も溶けていき、安定感を失った体は上へ上へと吸い寄せられていく。

 ダメだ、まだそっちへ行きたくない。

 抵抗しようと手足をバタつかせる。しかし指先は何も掴むことは無く、あっという間に全身が浮き上がってしまう。

 不自然な体勢のまま冷たい光の中へ投げ出され、胸を押さえつけるような息苦しさに襲われた。やがて頭の中に聞き覚えのある甲高い音が強引に入り込んで来た。

ジリリリリ・・・!

 激しいアラーム音にクロイは呻いた。石のように頭が重い。慣れ親しんだシーツの感触で自宅のベッドにいるのは何となく分かった。

 昨晩カーテンを閉め忘れたせいで朝日が容赦なく顔を照らしている。寝起きの瞳にはあまりに眩しくてクロイは目を閉じたまま腕を伸ばした。枕元からスマホを探り当て、慣れた手付きで目覚ましを止める。

「うーん」

 スマホを放り出し布団に顔を埋める。あともう少しだけ・・・再び眠りの中へ落ちかけた時、何かが肩に触れた。

「ギャウゥ」

 奇妙な鳴き声と何かゴワゴワした物が肩に触れる感覚がする。顔を上げると巨大なビー玉の様な青い瞳がこちらを覗いていた。クロイを起こそうとキィがベッドに登って来たのだ。低く鳴きながら鼻先を何度もぶつけてくる。その度に体が左右に揺さぶられ、とても二度寝できそうになかった。

「分かった。起きる、起きるよ」

 クロイは不機嫌な毛玉をポンポンと軽く叩くようにして宥めた。しかしキィは疑り深げに目を細め、ますます不機嫌に唸り始める。空腹時のキィに誤魔化しは効かないみたいだ。これ以上待たせると噛みつかれかねないので、クロイは渋々体を起こすことにした。布団を畳んでカーテンを開くと薄暗かった部屋に光の帯が広がった。

 あくび混じりに歩くクロイの後ろをキィがぴったりついてくる。尻尾をピンと立て、クロイがまた寝てしまわないか見張っているみたいだ。

 洗面所に辿り着き、ぬるま湯で顔を洗う内に眠気が少しずつ晴れていく。そこで壁の時計へ目をやると八時二十分だった。少し急がないと遅刻してしまう。クロイはようやく焦り出し、慌ててクローゼットへ向かった。

 ハンガーの列から青いシャツを選び取っていつものスラックスに着替える。シャツのボタンを留めつつキッチンへ向かい、電気ポットのスイッチを入れてからパンをトースターに放り込んだ。続けて棚からインスタントコーヒーの瓶を取ってカップへ入れ、湯が沸くのを待つ間にパン皿を準備し、冷蔵庫からブルーベリーのジャムを取り出す。

 そのうちコポコポと水が沸騰する音とカチッという軽快な音と共に電気ポットのスイッチが切れた。クロイは流れるような動きで湯をカップに注いでミルクと砂糖をたっぷり入れた甘いカフェオレを作った。黄金色に焼きあがったパンにジャムを乗せ、皿に移して足早にテーブルに着く。

 テレビで朝のニュースを聞き流しながらパンに齧りつく。昨晩と同じ内容が繰り返され、本日予定されているイベント情報、更に天気予報へと話題が切り替わる。半分も食べ終わらない内にもう家を出る時間だ。

 クロイはパン皿を床に置いてキィを呼び寄せる。嬉々として朝食にかぶりつく毛玉を横目に、残りのカフェオレを飲み干した。

 それからスマホをズボンの後ろポケットに押し込んでベルトに通信機のホルダーを取り付けると、息つく暇もなく玄関のドアを開いた。