割れたガラスを踏みつけて抜け殻の街を駆け抜ける。色褪せた建設会社の看板を過ぎると交差点があり、ぽつりと信号機が佇んでいた。その灰色の瞳が見下ろす先に一台の自動車が横たわっている。走る速度をやや落とし、歩幅を調節して思い切り地面を蹴った。ボンネットに飛び乗って、全身に激しい振動を感じつつ再度足を踏み切る。着地の際に少しバランスを崩したが構わず走り続けた。
裏路地へ入ると目標のビルを視界に捉える。側面に設置された非常階段を下から順に目で辿っていくと、四番目の踊り場でシャビが手を振るのが見えた。立ち止まって手を振り返してから通信機のスイッチを入れる。
「こちらクロイ、裏通りに到着しました」
『了解。正面玄関および大通り方面も配置完了だ。シャビ、始めてくれ』
『了解!』
威勢の良い返事と共に通信が切れる。四枚の翅がビルの中へ消えるのを見届け、クロイはそっと掌を擦り合わせた。発生した泡はゆっくりと渦巻きながら周囲を取り巻いていく。
鉄の扉の奥でカプセルが撃ち込まれる音がして、数回ピカピカと光が走った。それからこの数週間で嫌というほど聞いたあの羽音が、大きく膨らんでいく。ノイズポットから飛び出したルーグはやがて、ビルの一室に収まり切れずに割れた窓やドアから溢れ出す。
「カム!」
クロイは右手を振り上げた。無数の泡は黒い霧となって上昇し、飛んできた虫達を取り込んでバリバリと貪っていく。続いて左手を上げて霧を分断し、後から向かってくるルーグの元へ向かわせた。再度右手で霧を誘導し、また左手と何度も繰り返す。
噛み砕く音が途絶えた。一旦泡達を拡散させて耳を澄ます。辺りは静かで、目視でも虫の姿は見当たらない。大通り側へ逃げたルーグもリーダーとサブリーダーが片付けている頃だろう。
「ふう・・・」
クロイは大きく息を吐いた。空気と一緒にぽかりと煙が吐き出される。肩の力が抜けて全ての泡が弾けて消えた。
踊り場にシャビが現れてルーグ退治完了の合図が送られる。ビル内の片付けを手伝うため、クロイは非常階段に向かって駆け出していった。
太陽が西に傾いてティスアに黄金の光を注ぎ込んだ。
背の高いオフィスビルが光の並木を作っている。合間から高架線を走る電車が見え隠れし、その度に窓ガラスが反射し煌めいた。
職員達を乗せたワゴン車は沢山の自家用車やバスに倣って繁華街をゆったり走った。カフェやブティックの並ぶ通りは人が疎らで、代わりにレストランや居酒屋のネオンが店先を彩り始めている。
何所かから大時計の鐘の音が響いて、街全体が穏やかな闇に包み込まれた。ワゴン車は横道へ逸れてとあるビルへと入っていった。
エレベーターがガタガタ揺れながら三階で止まり、気怠げにドアを開く。一行は窮屈な箱を降りてようやく強張った体を伸ばした。
頼りない蛍光灯の光に等間隔で並ぶ扉が照らされている。どれもチョコレートの様な凹凸のある赤茶色の扉で、最奥の扉は扉自体も周囲の壁も塗装が剥がれて一段と古びて見えた。そして白地に堅苦しい文字で「ティスア特殊自然研究祖 チーム019」と書かれた表札が添えられていた。
事務所中央に置かれた木のテーブルは左右を四人掛けソファ、二脚のパイプ椅子、そして革が擦り切れた一人掛けのソファに挟まれていた。
床と天井は味気無い薄灰色で、テーブルの真上にある修繕跡だけが艶やかなベージュ色をしている。壁際に置かれたキャビネットから左へ行くと、仕切り壁を挟んで右側が給湯室、左側が事務スペースだった。
室内にキーボードを叩くカタカタという音が響いている。
アマリアはコンクリート地区のレポート作りに追われていた。現場毎に作成される書類は今月二十件を超えている。一枚ずつ内容を確認し、報告用のフォーマットへ打ち込んでいく。入力し終わった書類はファイルに閉じて、また次のレポートへ手を伸ばす。丸一日作業を続けてもまだ終わりは見えてこない。
風がカーテンを揺らして夕方の空気が冷んやり頬を撫でた。アマリアは薄暗い窓の外を眺め、机の上の書類の山をちらっと見て、また真剣な顔でパソコンに向き直った。
唐突に玄関ドアが開かれ、事務所内に職員達の賑わいが雪崩れ込む。アマリアはキーボードを叩く手を止めてそっと聞き耳を立てた。
リーダーは真っ直ぐに古びた革張りのソファへ向かい、腰掛けるなり手にしていた書類に目を通し始める。サブリーダーも椅子に座り、集合ポストから回収した手紙の振り分けに取り掛かる。クロイは本日の運転を務めたシャビが社用車の鍵をキャビネットに仕舞うのを待って、二人で給湯室に向かった。
夕方のこの時間、皆の行動は決まっていて仕切り壁の向こうを見なくても分かる。予想通りの音色が展開されるのを確かめてから、アマリアは椅子を回転させ、小さな軋み音と共に立ち上がった。
「皆さん、お疲れ様です」
水色のツインテールが柔らかく揺れる。桃色の肌と相性の良い紫のジャケットと星柄のシャツを着て、白のショートパンツと黄色い厚底スニーカーという鮮やかな服装が彼女の好みだった。
「ただいま、アマリア」
「お疲れ様」
彼女の出迎えに皆は口々に反応し、それを合図にして午後のミーティング準備が始まった。
テーブルに置かれた筆記具や来客用の資料を片付け――書面に釘付けのギュートを催促するのはいつもユウナだ――給湯室から戻ったクロイが布巾で丁寧に拭き上げる。シャビが運んできた盆には四人分のお茶とギュートのコーピーカップが載せられ、それらをテーブルへ並べる間にアマリアがキャスター付きのモニターを引っ張って来た。各々が支度を済ませ席へ着いた所でリーダーが口を開く。
「それでは始めよう。まずは個人の依頼について頼む」
「はい」
サブリーダーが書類を捲り答えた。
「本日、個人の新規依頼は三件あり、全て対応済みです。報告書については一件目をクロイ、残りの二件はシャビに作成して貰います」
ここで皆の視線がクロイとシャビへ向けられる。
「えー、一件目については今作成中です。今日中に作って明日朝一で提出します」
クロイがたどたどしく報告する。続いてシャビが簡潔に説明した。
「二件目、三件目の報告書は作成済みです。見直し後に提出します」
二人の報告が済むとリーダーは頷く。
「了解。明日オレで最終チェックをして本部へ送ろう。では次にコンクリート地区の調査についてだ。アマリア、地図を出してくれ」
「分かりました」
アマリアがパソコンを操作する。モニターにティスア中央街から森林地区までの地図が表示され、その内チーム091が担当する範囲は赤い線で囲んであった。
「本日は三十~三十五号について調査を実施した」
リーダーは森林地区の東から順に地図上を指し示す。
「その内三十四号にてノイズポットを確認」
今度は指先が画面をコツコツと叩く。
「既に除去は完了しシェリフが後処理に入っている。明日は経過観察の為再度三十四号へ向かいその後三十七、三十八号の調査へ移る」
「了解しました」
他四人が頷いた。続いてティスア全域でのルーグ発生状況について、アマリアが進行役を引き継ぎ話し始める。
「昨日十八時から十七時までのルーグ発生状況です」
キーを押し画面を切り替えると先程の地図上に黄色や青色の点が複数現れた。キーを押す度に一時間ずつ経過した様子が映し出され、少しずつ点が移動していく。時々点の集まる地域を拡大しては、付近の住居や街への影響について確認する。
「確認されたのはC級からB級までの小規模なグループで、森林地区付近に限られていたため問題はありませんでした」
「そうか、となると」
リーダーは手にした書類にボールペンを走らせる。日付や地域、発生規模などを記入した後に最下の欄にサインをした。
「今日の仕事はこれで終了だな。皆、お疲れさん」